乗るか歩くか。ただ、それだけのこと。


私は電車やバスに乗ることが苦手です。

息苦しくなります。

恐怖心を抑えるのに必死です。


元々は好きだったのですが、

精神的に調子を崩した時から苦手になりました。


でも、今は、苦手なものを避けつつ

うまく付き合いつつ、

日々、自然の中で、

人生で一番楽しい時間を過ごしています。


ふとね。

”学校に行けない”という

いわゆる、”不登校”というのも

これと同じだなって思ったんです。


学校は乗り物と同じ。


乗れば便利だし、

目的地へ連れて行ってくれる。

でも、乗るにはそれなりに

ルートが決まっていたり、ルールがあったり。


乗れなかったら、

立ち止まるか、

歩くのか、走るのか、

自転車に乗るのか、

車に乗るのか…


自分の状況にあった

選択肢を探し出すか

方法を作りだすか。


乗るか乗らないか

ただ、それだけの話。


乗れないからといって、

人間がダメなわけじゃないし、

人生がダメになるわけじゃない。

ただ、方法を変えればいいだけ。


自分が進みやすい方法を

自分で考えればいいだけ。


この

”自分で考える”が難しいし、

スピードが落ちることが目に見えるから

不安になっちゃうんですよね。


不安になる気持ちは、痛いほどわかるし、

私も不安な日々はありました。


だけど、今になってよくわかるんです。

スピードが落ちるけれど、

ちゃんと進んでいるんです。


方法もルートも全く違うけれど、

ちゃんと進んでいるんです。


なので、今は、

自分で考える時間のために、

立ち止まったっていいって思うようになりました。


じっくり考えて、

自分の力で進むことができたなら、

スピードが遅くたって、

凄いことだと思ってます。


カメのように進んでいても、

そのうち、飛行機にのって

ビューンって飛び去るんじゃないか

そんな事が起こる気さえしています。


なんでもいいんです。

進んでいるのだから。




先日、お話会に参加した

藤原ひろのぶさんがおっしゃっていた


”子どもにもプライドがある”


という言葉にとてもハッとさせられました。


不登校も

子ども達へのサポートは必要だけれど、

可哀想だと思うのは絶対に違うし

やっちゃいけないって痛感しています。


”不登校”=”可哀想”


それを肌で感じていた

我が家の子ども達も、

当初はかなり自信を失っていました。


そんな子ども達を見ていて、

学校に行けないだけで

なんでこんなにも自信を失わなくちゃいけないんだ?

って思ったんですよ。


なんでこんなにも小さく生きなくちゃいけないんだ?って。


うちの子なんも悪いことしてないのに

むしろ、真面目に行ってたのにって。


なので、子ども達に言いました。


『あんた達は何も悪いことしてない。

学校に行けないだけで、ダメなわけがない。

ただ、その環境があわなかっただけ。

自信を失う必要なんてどこにもない。』


そうやって声をかけても、

自分を責めて続けていました。

(今は殆どないです)


それだけ

”学校に行かないとだめ”だと、

子ども達にしみついているのだと

痛感しました。


子ども達に偉そうに言っていた私も、


子ども達3人が不登校になって

”大変だね””可哀想だね”

周りからそう思われている気がして、

”可哀想でなければいけないんだ”って

どこかで”可哀想”を擦り込もうとする自分がいました。

”可哀想”であろうとする自分がいました。

それがとにかくしんどかった。

(自分がそうしてたんですけど)


ホント、

”可哀想”であることに

なんにも良いことはないですよ。


今は、自然の中にいて、
素直に思えます。

乗り物に乗れなくても、

可哀想じゃないよ。

歩けば進めるんだから。


歩けば景色もゆっくり見れるし、

寄り道もできるし、

良いことだってあるかもしれない。


乗り物に乗らないことを

楽しんだ方がよっぽど

進むことが楽しくなります。


楽しければいいんです。


なんだか長々と書いちゃいましたが。


楽しければいいんです。



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