木の上に立って見守るってうまくできてるわ〜


”木の上に立って見守る”

親っていう漢字の成り立ちで言いますよね。

ほんと、昔の人は

よーく本質をとらえてらっしゃる…


これまたゲームの話題になるんですけど。


ゲームには中毒性がある

ってよく言われますよね。

私も子ども達を見ていて

完全な中毒だな〜と

心配になる時は一応あります。


でもですね。

だからやめさせる

というのはやめました。

というか、諦めました。

無理です。

むしろ逆効果です。



子ども達の中毒性を気にしていた頃、
とある番組で
とあるお医者様の話を聞きました。


依存というのは様々な要因があって
そこに頼らないと生きていけない状態
にあるということ。


いわば、海に落ちて
必死に浮き輪につかまっている状態。


依存しているものを
やめさせるというのは
その浮き輪を奪うようなもの。


やめられるわけがない。
死ねと言われているのと同じだから。


浮き輪にしがみつくように、
依存にもっと依存するようになる。


というようなことをおっしゃっていました。


あ〜そういうことか〜!!

って思いましたね。

”ゲームが居場所”にも通じる理論。

ものすご〜く納得しました。


じゃあ、

どうやって依存から抜け出すか?

というと、

こんな風におっしゃっていました。


助ける手を差し伸べて
その手に気づいてもらい
浮き輪以外にも生きる方法がある
と気づいてもらい
その手をつかんでもらうこと


だそうです。


それを聞いて、

なるほどな〜と痛感。


長男にとっては

畑やそこに関わる方々との

ちょっとした出会いや経験が

救いの手になったんですよね。


長男のことを思うと

差し伸べられる手は親とも限らず、

差し伸べられた手に気づいて

それをつかむかつかまないか選ぶのも、

子ども本人なんやな〜と

親は見守るしかないってことか〜

と、しみじみ痛感しております。


もちろん、

私も今まで子ども達にいろいろと

手を差し伸べてきたつもりでしたが

お恥ずかしい話、

子ども達を救いたいというよりは

(もちろんその思いもありますけど)

早くこの不安から抜け出したい!

という焦りの方が本音だったな〜と

気づかされました(恥)


子どものためと言いつつ、

自分の為であったわけです。

きっと見抜かれてたんでしょうね。

差し伸べた手を掴んでもらうことは

ほとんどなかったです(笑)


なので、段々と、

子ども達が掴む手は

きっと私の手ではないんだろうな〜

と薄々気づいてはいました。


子ども達を助けたいと

自分の不安を拭い去りたいと

いろ〜んな方法を試しましたけど


結局は、

子ども達を信じて
見守り寄り添うことしかできなくて
自分の思うようには動かせないって

ことなんですよね。


親という漢字は

ほんとよくできてます。


過去の自分を反省。

そして、私は私の人生を進むのみ。


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