勉強ゼロでゲームと動画だけにならざるをえなかったわけ
我が家の子ども達は
長男が畑作業に出かけたりしていますが
それ以外は、だいたいゲームをするか
動画を見ているかで、勉強はほぼ皆無です。
一般的にいうと、
とても大変な家庭状況なんでしょうけどね、
我が家はみんな元気に笑って生活しています♪
でも、ここに辿りつくまでは
そりゃ〜いろいろとありましたよ。
勉強せずにゲームや動画ばかりだったら
そりゃ笑ってられるだろうね
ただ甘いだけなんじゃない?
と、思われるかもしれませんが
実際はそんなに単純な話ではないんです。
子ども達はただ楽をしたいだけではなく
親の想像を遥かに超える苦しみを持ってて
生きるためにそうせざるを得ない
という状況になってしまっていた。
むしろ、そう追い込んでしまった…
というはなしです。
子どもだからと
子どものの考えを
みくびってはいけない
というのが私の最大の学びです。
そもそも私はゲームが
苦手&下手くそなので(笑)
面白さもわからないし、
子どもにとってはよくないものだ
と思っていたので
長女が学校に行かない選択をした時、
自宅学習のノルマを設けて、
ゲームも時間制限を設けていたんですよ。
長女は当初ちゃんとやってました。
でも、だんだんと様子がおかしくなって
ある時”辛い”と泣いて訴えられたんです。
学校に行かずにずっと家にいて、
ちょっとの勉強と
ちょっとの時間制限の
一体何が辛いのか
さっぱりわからなかった私。
『家にいるんだから、
それぐらい頑張ろうよ〜』
今思えば、禁句を連発してました。
結論からいうと、
自宅学習も、ゲームの時間制限も
私からしたら”ほんのちょっとのこと”
だったんですけど、
長女にとっては
自分には生きる価値がない
と、思い知らされることに
繋がっていたんですよね。
そんな大げさな〜って思うでしょ?
私も思いましたよ。
私もあとから段々と
理解できたことなのですが、
ちょっとのことが
自分には生きる価値がない
とまで追い込んだのには、
ちゃんと理由があったんです。
なぜかと言うと、
学校に行かなければいけない
と言うこと、
勉強をしなければいけない
ゲームばかりではいけない
と言うこと、
長女は、私が思う何倍も何倍も
理解しまくっていたんです。
本当は全部ちゃんとやりたい。
でもできない。
でも、できない理由もわからない。
どうやっても、やりたいことを
できないから辛い。
こんな風に、相当苦しんでいたんですよね。
私は当時、まさか長女が
学校に行けなくなった事に対して
そこまで苦しんでいたとは
全く理解できていませんでした。
学校が辛いのは理解したつもりだったので
(実際はできてなかったのですが)
学校を休めば、それで解決してるやん?
ぐらいに思っていたんです。
ちょっと大人びた思考をする
長女ではありましたけど、
それでも子どもだからと思ってました。
ところが、本人は、
学校へ行かなくちゃいけない
勉強しなくちゃいけない
ゲームばかりじゃいけない
ちゃんとしなくちゃ!!でもできない…
でも、お母さんの言う
ノルマが大切なこともわかる。
だから頑張る
お母さんに心配をかけてはいけない
だから頑張る
学校に行ってないんだから
それぐらいはやらなくちゃ!!
だから頑張る…
と私のために必死だったのでしょうが、
結果的に、
私との約束を守らなくちゃとなるたびに、
自分は学校へ行っていない人間なんだ
自分は学校へ行けないダメな人間なんだ
家で勉強さえもできないダメ人間なんだ
と、思い知らされることに
繋がっていたようです。
私はただでさえ学校に行けずに
苦しんでいる長女に、
家でまで
『それぐらい頑張って』と
傷口に塩を塗り続けていたわけです(涙)
ガソリンがない車に
走れ、走れと言っていたわけです(恥)
長女は、その辛い事実を
思い知らされるたびに、
動画を見たりしていたんですよね。
ある意味、生存本能です。
死ぬほど辛いから、
生きるためにゲームや動画に逃げていたんです。
ところが!!
私は”ちょっとぐらい”と、
それさえも制限してしまっていたんです。
長女にとって
ゲームをしない時間=死ぬほどつらい時間
になっていたことには
気づいていませんでした。
だんだんと伝わってきましたか?
私がどれだけ長女を追い込んでいたか。
長女は時々
『勉強いやだ』
『ゲームしたらあかんの?』
と、多少助けを求めてきていた気もしますが
私は『それぐらいは頑張ろう!!』
…気がつけば、長女は
自己否定の塊
になっていました。
毎日、毎日自分ができないことを
すりこまれていったわけですから、
当然ですよね…。
今でこそ、長女には
申し訳なかったな…と思いますけど
当時は、これでも必死だったんです。
私が長女が実は相当辛かったという、
気持ちのカラクリに気がつけたのは
2年ほど経ってからだった気がします。
長女が行かなくなって、2年ほど経って、
長男も行かなくなったある夜に、
2人に泣いて訴えられました。
ゲームや動画をできない時間は
恐怖でしかない
自分がどれだけ弱い人間なのか
思い知らされる
お母さんにはこれがどれだけ辛いか
わからない
苦しい。死にたいとさえ思う。
まさか、ここまで追い詰めてるとは
思いませんでした。
1日のほとんどをゲームで過ごしていて
制限をかけたのはほんの数時間。
これぐらい我慢できるでしょ?と、
何の問題にも感じていませんでした。
でも、子ども達にとったら
ゲームや動画をしない時間は
生きていくためのツールを奪われた状態
いわば
瀕死の状態
だったんですよね。
ちょっとの制限が、
私もびっくりしましたよ。
理解するのにも時間がかかりました。
子ども達は私に心配かけまいと
昼間はなかなかそういう本心も
出さないですし、
あったと思います。
今思えば、あの夜、
よく泣いて訴えてくれたな〜と思います。
泣いて訴えてくれなかったら、
今の生活はなかったかもしれません。
これらの一連の流れ・経験があって、
勉強を促すことが自己否定につながり、
ゲームや動画が生きるために
必要なツールであるということがわかったので、
私としては、我が子を守るために、
常識は一切捨てて、
生きるための選択をするしかなかった
というわけです。
生きるための選択。
それは、
”生きたいと思うこと”
毎日が”楽しい”と思えるようになること。
明日を楽しみだと思えるようになること。
自分が生きてきた常識を捨てることは
抵抗もありましたし、
何でこんなことに…と思う事は
山ほどありましたけれど(笑)
子ども達の事をきっかけに
選択してきたことが、いずれ
自分の生き方を変えていくようになる
とは全く思ってもみませんでした。
人生は本当に不思議です。
どんなに辛い経験も、
無駄じゃない
ってやつですね。
これからは、ピンチをチャンスにしたいものです(ふふふ)
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